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「溥儀に事件の話を」方素栄(事件当時4歳)

【私の家族のこと】

 私の名前は方素栄です。これは、私を育ててくれた、母方の祖父が付けてくれた名前です。元々の名前は、韓暁鐘といいました。生年月日は、1928年6月2日です。
 事件当時私は、両親、弟二人、祖父母、叔母(父の妹)それに私の8人で住んでいました。当時私は満4歳でした。父は韓延東(当時25歳)、 母は韓方氏(当時23歳くらい)といいました。祖父母、弟たち、叔母の名前はよく覚えていませんが、弟たちは当時3歳と2歳、叔母は20歳でした。

 私の手元には現在も何枚かの写真があります。その写真の一枚は、満年齢2歳くらいの私の写真です。見ておわかりのように、とても綺麗な服を着ています。その頃の私は、このような服を普段から着ていました。私の父は時計修理屋をやっていて、その店がとても繁盛していたので、私の家は普通の家庭よりずっと裕福だったのです。 

 

 

 

 

 

 

 上の弟の写真も残っています。母は事件のとき機関銃の銃弾を受けて殺されました。弟は機関銃掃射の後に「お母さん!」と叫んでいたところを日本兵によって銃剣で突き刺され、上に放り投げて殺されてしまいました。

 

 

 

 

 これらの写真は、いずれも事件の後に私が手に入れたものです。
 父の時計修理屋は、もとは千金寨にありましたが、その後平頂山に移転したものです。
 千金寨に父の店があったときに、道の向かい側にあったのが「栄華照像館」という写真屋でした。そのため写真屋の主人は私たちの家族をよく知っていて、平頂山に引っ越した後に平頂山事件が起きたことももちろん知っていました。
平頂山事件の後、千金寨に住んでいた母方の叔父(母の弟)の家に私は預けられました。生存者であることが知られないように、名前も方素栄と変えて生活していました。
 私が9歳頃のことですが、この「栄華照像館」の主人が、「ちょっと来なさい」と私を呼び止めました。そして「私のところにあなたの家族の写真があるよ」と言って、母と弟、そして私の写真をくれたのでした。写真屋の主人は、私の境遇を知っていて私に同情して写真をくれたのです。しかし、祖父母や父の写真はありませんでした。
 4歳の頃に事件に遭い、その後5年ものあいだ、私は家族のいない生活をしてきました。家族の顔すら思い出せなくなっていました。この写真を見てやっと母や弟の顔を思い出すことができて、私は泣き出してしまいました。そして、写真を取っておいて私にくれた写真屋さんにも心から感謝しました。

 

 

 

 

 

 

 それ以来、この写真をとても大事にしてきました。他人の親子が仲良くしているところを見たり、辛いことがあったときなどに、私はこの写真を取りだしては眺めて泣いていました。しかし母と弟以外の家族の写真、特に私を一番大事にしてくれた祖父の写真がないので、私は大好きだった祖父の顔を思い出すことができません。 私は写真を見るたびに悲しくなり、色々なことを思って泣いていました。母の写真を見ると、最後に頭から白いものが飛び出して死んでいた母の姿を思い出してしまいます。綺麗な着物を着た自分の写真を見ると、家族に囲まれ家庭の中心だった頃の幸せな生活を思い出してしまいます。 
 そして日本人をとても恨みました。当時は日本人と日本軍の区別もわからず、とにかく日本人を恨んでいました。日本人が私の家族を殺さなければ、私は今でも幸せだったはずなのにと思いました。

【平頂山事件のこと】

 平頂山では、祖父は雑貨店を、父は時計の修理屋をしており、普通の家庭よりは裕福だったようです。また、事件の日には、祖父の友人の屈さんという、40歳くらいの人が来て、家に泊まっていました。
 平頂山には1000を超えるくらいの家庭がありました。村の真ん中には道がまつすぐに通っており、その道の両側に家が並んでいました。
 私の家は、村の一番はずれにありました。私の家の直ぐ前で道は終わっていました。私の家の横には、深い溝が掘ってあり、その溝の向こう側には、鉄条網で囲まれた、独身の炭鉱労働者たちが寝起きする宿舎がありました。私は、何度かそこに、祖父に連れていってもらったことがありました。鉄条網の破れたところから中に入って、遊んだこともありました。
 家は煉瓦造りで、新しい家でした。家には、部屋が七つありました。家の裏側は庭になっていて、庭の向こう側には、低い土塀がありました。

 9月16日の夜が明ける前、村の真ん中の道を、村の中の方から労働者の宿舎がある方向に、一団の人たちが、やって来ました。彼らは、「殺せ!」 「殺せ!」と叫びながら、道を通り抜けて行きました。私は寝ていましたが、大きな声だったので、目を覚ましてしまいました。私は、その足音と叫び声を聞きましたが、何事かわからず、ただ怖くてたまりませんでした。祖父が、私を布団のまま抱きかかえ、家の裏の物置に運んで、石炭の上に袋を敷いて、その上に布団にくるんだままの私を置きました。私たち家族は、しばらくの間、音が聞こえなくなるまで、物置に隠れていました。

 朝、あたりが明るくなったころ、私は、祖父の店の玄関の外で、一人で遊んでいました。村のはずれの鉄条網のこちら側に、日本軍のトラックが何台かやって来て止まりました。たくさんの日本兵がトラックから降りてきました。日本兵はみんな鉄帽をかぶり、その後ろから布を垂らしており、着剣した銃を持っていました。軍刀を腰から下げた人もいました。日本兵たちは、こちらに向かって走ってきました。私は怖くなり祖父を呼びました。祖父は、店の玄関から外を見て、急いでドアを閉めました。私たち家族は、屈さんも含めて、みんな祖父の店の中に寵もりました。そのころ、よく大人たちが、「日本人は中国人を捕まえて労働者にする」という話をしていました。祖父は、ドアを閉めると同時に、父に「早く逃げろ」といいました。父は、裏庭に向かって一人で走って行きました。祖父がドアを閉めるのとほぼ同時に、ドアをこじ開けて、日本兵が二人、家の中に入ってきました。日本兵たちは、直ぐに私たちがいた部屋に入ってきました。その時、先に入ってきた日本兵が、逃げていく父に気づきました。父は、自分の背丈より少し高い、裏庭の塀を登っているところでした。私の直ぐ目の前で、日本兵は、立ったまま、先に銃剣のついた銃で、父に向けて、銃を発射しました。父は後ろから撃たれて、落ちて倒れました。母も私も、声を上げて泣きました。祖父の目にも涙が溢れました。私たちは父のところへ飛んで行こうとしましたが、日本兵に止められました。日本兵の様子を見た祖父も、私たちを止めました。この時が、私が父を見た最後です。父はこの時に亡くなったと思います。

 それから、日本兵が私たちに銃口を向けて脅かし、家から出そうとしました。家を出るとき、日本兵が、中国語で「写真を撮る」といいました。私は祖父に連れられ、上の弟は叔母に、下の弟は母に、それぞれ抱かれて、家を出ました。村中で、日本兵たちが、住民たちに、銃で脅かして、外に追い出していました。日本兵たちは、中国語で「写真を撮る」「写真を撮る」と言っていました。住民たちは、日本兵たちに追い立てられていきました。私は、祖父に手を引かれて、列の後ろの方からついていきました。住民たちの中には、風呂敷包みに、手当たり次第に物を突っ込んで、持っている人もいました。

 住民たちは、私の家とは反対の方向の、村はずれの一カ所に集められました。そこは、崖の下の丘のようになった空き地でした。私たちは、ひとしきり歩いて、みんなが集められた場所に着きました。私たちが着いたとき、既にたくさんの人がいました。住民たちは、特に列を作らされるでもなく、家族ごとに固まって、雑然と集まっていました。私たちがその場所に着いたとき、既に写真機のような物は置いてありました。写真機のような物には、全て、黒い布がかぶせてありました。 それは、たくさんありました。

 私たちは、群衆の真ん中あたりを目指して移動しているところでした。日本兵は私たちに座るように手振りをしました。そして、その手振りをしながら、写真機のような物から、布を取りました。何と、それまで写真機だと思っていたのは、機関銃でした。私たちが機関銃だと分かったと同時に、日本兵は、発射しました。この時、父以外の家族7人と、家に来ていた客の屈さんの8人は、まとまっていました。私は祖父と手をつないで、母が下の弟を抱き、叔母が上の弟を抱いていました。祖父は「中の方に!」「中の方に!」と叫びました。私たちは、お互いを、夢中でかばい合いました。機関銃の発射が始まってまもなくのころ、祖父は、私をかばうように、私を両腕で抱えるようにして倒れました。しかし、祖父がどこを撃たれたのかは分かりませんでした。倒れてから、私にも銃弾が当たったことが判りました。何カ所にも当たっていました。後でわかったのですが、この時私は、頭や首、左腕、左脇腹、右足など、八カ所に銃弾を受けていました。しかし、当たった順番などはとても覚えてはいません。この時に、首に銃弾が残りました。祖父の身体が、私の上に覆い被さっていて、息ができないくらいの苦しさでした。私は、痛みのため意識を失いました。
 気が付いたのは、しばらく経ってからだったと思います。私は、祖父の下で、仰向けに倒れていました。少し顔が出ていたので、ほんの少し外が見えました。しかし、動こうとしても、祖父が重くて動けませんでした。その時、日本兵たちが、クシュ、クシュ、という、水の上を歩くような音をさせて歩いていました。水のような音は、たくさんの住民たちの血が溢れていたためでした。未だ生きていて、声を出している人たちがいました。「アイヤー!」という叫び声、「助けてくれ!」という悲鳴も聞こえました。

 私が目を覚ましたのは、すぐ近くで、上の弟が「マー(媽)!」 「マー(媽)!」と叫んでいたからだったのかも知れません。私が目を覚まして間もなく、上の弟が這い出して来たのが見えました。弟は「マー(媽)!」と大きな声で叫びました。すぐに日本兵が来ました。日本兵は、弟めがけて、銃剣で、上から突き刺しました。銃剣は、クシー、と音を立てて、弟の身体に入りました。日本兵は、弟の身体を突き刺したままの銃剣を、上に振り上げて、弟を投げ捨てました。私は、すぐに目を閉じて、動かないようにしました。私のところに来ないで欲しい、私に気づかないで欲しい。私はそれだけを、凍り付いたように願いました。私の家族はみんな私のすぐ近くにいるはずでしたが、ほかに動く人はいませんでした。弟が刺された後も、「アイヤー!」という叫び声がいくつか聞こえました。

 やがて、日本兵たちの歩く音が聞こえなくなりました。音が聞こえなくなってしばらくして、私は、重い祖父の下から何とか這い出しました。既に日本兵たちはいませんでした。夕方近くなっていました。私は、すすり泣きながら、祖父に声を掛けましたが、動きませんでした。母、祖母も引っ張ってみましたが動きませんでした。母の頭の上には、白い豆腐のような物が見えました。下の弟は、母に抱かれて、動きませんでした。

 誰も動かないので、私は家に帰ろうと思いました。私が立ち上がったとき、村の方に煙が上がっているのが見えていました。私は、家まであと二~三軒のところまで歩いて行きました。自分の家も燃えてしまっているのが分かりました。家に戻ろうにも戻ることができなかったので、再び祖父たちのところに戻りました。既に夜になっており、雨が降り出していました。やっとのことで祖父を見つけると、祖父の横で、いつもそうしているように、片腕を祖父に持たせかけました。傷が痛くて、しばらくは寝付けませんでした。首が一番痛かったのを覚えています。

【現場から逃げる】

 翌17日、私は夜明け直前、まだ薄暗いころ起きました。私は、もう一度祖父母、母を呼んで見たり、引っ張ったりしました。しかし、やはり誰も返事もしませんし、動きもしませんでした。 みんな、やっぱり死んでしまったんだ、と思いました。
 私は、私の家の横の溝を超えたところにある労働者たちの宿舎の方に歩いて行きました。私が鉄条網の外側まで行ったとき、宿舎でご飯を作っている祖父の知り合いの宋さんが、たまたま水を捨てに外に出てきていました。宋さんは、私を見つけて、驚いてすぐに宿舎の中に入れてくれました。

 宿舎の中は、真ん中に通路があり、その両側が少し高くなっていて、オンドルになっていました。オンドルの上に、たくさんの労働者たちが並んで、通路の方を頭にして寝るのです。宋さんは、麻袋を布団代わりにしていたのですが、宋さんは、私を麻袋でくるむと、自分が寝る場所の足の方に私を置いて、布団のようにあまり動かないようにと言いました。この日労働者たちは帰ってきてから、今後私をどのようにして送り届けるかを相談していました。彼らは私に誰か知り合いはいないのかと聞きました。その村から10キロくらい離れた千金寨という所に私の母方の祖父母たちが住んでいました。彼らは、血だらけで目立つ私を、どうやって母方の祖父の元まで連れて行くかを相談しました。この事件で、私たちの村は全滅しましたが、宿舎の近くに住んでおり、自分の家を持っていたある労働者が、この事件を聞いて怖くなり、引っ越そうと思っているとのことでした。労働者たちは、その人に、私を千金寨まで送り届けてくれるよう頼みました。

 18日、私たちは千金寨へ向けて出発しました。私を運んでくれた人たちは、馬車の上に大きな陶器製の水ガメを逆さに置いて、その下に私を隠し、その上にいろいろな物を置きました。途中、宿舎の周りの鉄条網の囲いの出入り口のところに、通行人の荷物を検査するところがありました。そこで、日本兵が銃剣で荷物を刺したりしていたようですが、私は水ガメの下に入っていたので無事通過することができました。届けてくれた人たちが、私を祖父の家に届けるところを人に見られるのは怖いと言うことでしたので、千金寨の少し手前にあった、労働者が食事をするところまで叔父(母の弟)が迎えに来てくれました。

 母方の祖父の家には、話を聞いた親戚や友人が訪ねてきました。私は、何が起こったのか、みんなに話しました。私は、この母方の祖父の家で、育てられることになりました。祖父の家の人たちが、戸籍調査の人たちに見つかると怖いので、私の名前を現在のものに変えました。この名前は祖父が付けてくれました。方というのは、母の実家の氏です。

 私は怪我をしていましたが、祖父の家の人たちは、私が平頂山から逃げてきたことが分かることを怖れて、病院には行かせず、自分たちで私の傷の手当をしました。
 千金寨は、撫順の市内に隣接しており、平頂山にも近かったので、私が日本兵に見つかって捕まるかも知れないし、かくまっている家族も心配でした。そこで、私が来てから4~5日で、私たちは、千金寨を離れることにしました。千金寨から南の方、約20キロくらい離れたところに、母方の祖父が昔住んでいた、方一族の住む村があり、祖父一家は私をその村に連れて行きました。私たちは、祖父の親戚の家で生活しました。その村でも、祖父たちは、病院に行くのを怖れて、千金寨で買った薬を私に塗って治療をしました。北方の農村でしたので、高梁の畑がありました。これはかなり背の高い植物です。私は、叔母と一緒に、昼間は畑に隠れていました。夜になると家へ連れて行かれて寝ていました。首には銃弾が残っており、かなり腫れていましたが、病院には行かず、小さなカボチャを薄く切って、傷口に貼っていました。これは、北方で民間に伝わる治療法です。

 傷口にカボチャを貼ると、少しずつ銃弾の頭が見えてきました。約1ヶ月後、ある程度出てきたので、叔母がそれを手で引っぱり出しました。叔母の話では、銃弾は2、3センチくらいの大きさだったということです。私の首から銃弾が取れると間もなく、祖父母、叔父、従兄は千金寨へ戻りました。私は叔母と二人で傷が治るのを待ちました。左腕は銃弾が貫通したのかどうかはわかりませんが、全部で4カ所傷があり、しかもかなり深い傷だったので、治るのにずいぶんとかかりました。首と左腕以外は銃弾がかすった程度でしたが、頭は骨が少し見えていました。一番ひどかったのはやはり首でした。とても痛みました。痛みのために叫びそうになりましたが、叔母に「叫んだら、逃げてきたことが周りに知られて捕まってしまう」と言われ、痛くても何も言えず、小さな声で泣くことしかできませんでした。全ての傷がふさがるまでに約半年くらいかかりました。子どもの頃は、大人から「事件のことは誰にも言うな」と言われており、怖ろしくて、事件の話は他人にはできませんでした。また、町で軍刀をさしている日本兵を見ると、逃げて隠れていました。

 傷が治ると、千金寨に戻りました。1938年2月、 満9歳の時、撫順市大馬路小学校に入学しました。5年間通い、1943年1月、満14歳の時、やめました。学校のころは、私の身元がわかってしまうのが怖くて、平頂山の話をすることはありませんでした。学校では、私が平頂山事件の生き残りだということは誰も知らなかったと思います。

 卒業後、1944年春、満15歳から労働者として撫順市の撫順製鋼所という、日本人経営の製鉄工場で働き始めました。私は、日本人が怖かったし、とても嫌っていましたが、月に10斤の高梁米をくれるというので、そこに勤めることにしたのです。その製鉄工場にも、祖父の家から通いました。製鉄工場では、労働者として、主に、入ってくる車のナンバーのチェックの仕事をし、その仕事をしていないときは、お茶くみをしました。工場の事務室の中は、日本人ばかりでした。日本人たちみんなに、お茶を入れるように命令されましたが、私は、日本人をとても嫌っていたので、いつも、事務室の中で一番えらい人にだけ、お茶を出すようにしていました。その人は、私に割とよくしてくれました。ところがある日、その一番えらい人が帰国してしまい、ほかの日本人たちが「入れろ!入れろ!」と要求しました。私が入れないでいると、日本人たちは、怒って私に茶碗を投げつけて来ました。このようなことがあった次の日から、私は工場に行かなくなりました。

 私は、1945年末に前夫と結婚しました。前夫との間には、女の子が一人生まれました。しばらくは、家庭にいましたが、解放後の1949年11月18日より撫順市の西露天鉱で働くようになりました。はじめは労働者として火薬庫で働き、51年からは安全課で事務員をし、54年からは人事課で事務員をし、56年からは託児所の所長をしました。ここは、全西露天鉱の労働者の子どもたちの託児所でした。その間、50年には前夫が病死し、52年1月に今の夫と結婚しました。夫は電気関係の技術者で、この後、夫の転勤のため、広東省、雲南省に移りました。

 1958年から広東省茂名市の石油会社の幼稚園の園長をして、その後同会社の行政福祉課の副課長をしました。ここでは、幼稚園の仕事と、会社の社員の住居の修理・分配や食堂の仕事等をしました。64年には、同石油会社の工会(工会とは、労働組合のことです)女性部部長になりました。その後は、66年2月、雲南省昆陽の燐鉱工会の副主席になりました。そこでは、家庭内のもめ事の仲裁をしたり、女性の労働保険の仕事(退職や病気などに関するもの)の仕事をしました。1984年、54歳で退職しました。

撫順戦犯管理所

 私は、1949年ころから平頂山事件の話をするようになりました。この年、中華人民共和国が成立しました(撫順は、それより先、1948年10月に解放されました)。
 このころ、各職場を通して、かつての日本や国民党から受けた被害を訴えるという運動がありました。私も自分の体験を話すようになり、平頂山事件の話を聞く会も開かれました。いくつかの小学校、職場、集会などで話をしました。また、遼寧省のラジオ放送局でも話をしたことがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 (写真:参観台)
 
 私は1956年に、撫順の西露天鉱の「参観台」という場所で日本軍の戦犯たちに自分の悲'惨な体験を語るよう、職場の上司から言われました。当時は知らされていなかったのですが、その戦犯たちの中には、「満洲帝国」皇帝・愛新覚羅溥儀もいたとのことです。
 私はそれまでも、職場や学校で自分の体験を話したことがあり、また遼寧省のラジオ局で話をしたこともありました。私は日本人をとても憎んでいたので、自分の体験を話すときには日本人のことを「日本鬼子」と呼び、日本人に対する憎しみをそのまま表現していました。
 しかし戦犯管理所の所長は、「悪いのは日本軍国主義であって日本人ではないのだから、日本人を憎んではいけない」と私のことを繰り返し教育しました。私はそのことになかなか納得できなかったので、証言をするまでの1ヶ月のあいだ、所長は何度も私のところにやってきて、私を説得しなければなりませんでした。日本人と日本軍国主義を区別して、日本人の戦犯には反省してやり直す機会を与えなければならないというのです。
 そのような所長の説得を、私は頭では一応理解することができました。
しかし、感情的に納得することはできませんでした。今でも高齢の日本人を見ると恐怖を覚えるのです。心底納得して日本人を許すことなどできるはずがありませんでした。日本に対する自分の'恨みを晴らしたいという気持ちは、その後もずっと抱き続けてきたのです。

 西露天鉱を見下ろす高台に、「参観台」という建物があります。その中の会議室で、私は講演をしました。会議室の中には、椅子がたくさん並べられており、椅子の間に二つの通路が作られていました。100人くらい座れる場所で、ほとんど満席でした。講演の時、私は日本の軍国主義が悪いのであって、日本の国民が悪いのではないということ、そして自分の体験を話しました。私が話し終わったとき、二人の日本人戦犯が二つの通路のうちの左側の通路から、前に出て来てひざまずき、自分たちは平頂山虐殺事件に直接関わった、と告白しました。そして彼らは、 「私を殺してください。大罪を犯したことを悔いています」と泣きながら言いました。他の日本人たちも泣いていました。しかし、私は何も言いませんでした。涙だけ、たくさん溢れて来ました。

 

【再び平頂山事件の現場を訪ねて】

 

 子どものころ、母方の祖父の家で、大人から、平頂山の村で殺された人々は、ガソリンをかけて焼かれ、爆発させて埋められたと聞きました。解放後、1951年に現場の近くの丘の上に、記念碑が建てられました。その時に、事件以来初めて、私はかつての平頂山を訪れました。
 その後私が撫順を離れてから、1970年に、遺骨の一部が発掘され、虐殺現場の上に、遺骨館ができました。遺骨館には、二回行っています。最初に行ったのは、1971年ころだったと思います。仕事の出張の時に行ったのです。そこは、私の祖父母や、母や、弟たちが殺された、正にその場所です。初めて遺骨を見たとき、言葉では言い表せないような悲しさがこみ上げ、泣きました。累々と横たわる骨の中に、子供を抱いている白骨があり、母と下の弟ではないか、と思いました。私は、持ち帰って、供養してあげたいと言う気持ちでいっぱいになりました。しかし、骨は保護されているため、持ち帰ることができません。この白骨になってしまっている人たちは、既に死んでしまっていますが、もし言葉が話せるなら、日本政府に対して、きっと、全く罪のない人たちが、しかも丸腰の人たちが、無駄死にさせられた苦しみ、恨みを訴えることでしょう。

 

【民間対日賠償請求の記事】

 

 このような状況を大きく変えたのが、1992年5月22日付の『文摘周刊』という新聞の記事でした。

 

 

 

 


 この記事には、北京の童増という学者が全国人民代表大会に、日本政府に対する民間の賠償請求ができるとの意見書を提出したという内容が書かれてあったのです。
 この記事を見て、自分の被害の賠償を請求できる可能性があるということを私は初めて知りました。
そこで私は、この記事に出てくる北京の童増先生に手紙を書きました。これに対して、童増先生から返事が来ました。その手紙には、私の受けた被害に同情すると書かれてあり、今後の取り組みについて助言が書かれていました。

一方、1992 年8 月31 日付けの『春城晩報』という新聞に、強制連行強制労働の被害者劉連仁さんが、日本政府に謝罪と賠償を要求したという記事が載っていました。
 私はどんな手段を使ってでも賠償請求を実現したかったので、この新聞の編集部にも手紙を送り、どのようなやり方をすれば日本政府に賠償請求できるのかを問い合わせてみたこともありました。
 
 私は自分の被害について、1995年7月20日付で起訴書を作成し、これを北京の日本大使館に宛てて送付しました。日本大使館に送った起訴書に対しては、日本政府からまじめな返事が来るだろうと期待していました。少なくとも返信くらいはあるだろうと信じていました。しかし、1995年末になっても日本政府からは何の反応も来ませんでした。
 1995年12月、童増先生から年賀状が来ました。その年賀状には、すでに労工問題と「慰安婦」問題で日本国を相手とする裁判を起こしたことが書かれてありました。さらに平頂山事件についても日本の弁護士に話をしてあり、翌年に日本の弁護士が中国に来ると書いてありました。
 1996年1月下旬、いよいよ北京で日本の弁護士と会うことになったのです。北京に行くときは、複雑な気持ちでした。一面では、早く日本人の弁護士に会って、自分の受けた被害を話して恨みを晴らしてもらいたいと思っていました。けれど同時に、本当に日本人が自分たちの力になって、裁判を本気でやってくれるのかという不安もありました。私はそれまでずっと、すべての日本人を恨んできました。教育を受けて日本人を憎むべきでないとは思いましたが、やはり日本人を本当に信用することができず、心の底には不安があったのです。こうした期待と不安の入り交じった、複雑な気持ちでした。
 このようにして、1996年1月に北京で初めて日本の弁護士に会ったのです。私の被害について聞き取りをしてくれたのは1月27日のことでした。そして、1996年8月14日にようやく提訴することができました。

 

【最後に】

 

 遺骨の山を見てもわかるように、この事件の被害者は、大勢います。私も、家族を全員殺されています。日本国は、過去の侵略の事実と、この事件で、大虐殺のあった事実を認めなければならないと思います。長年月を経た今でも、事実はなくなりません。日本の政府は、この事件の事実を認め、謝罪をすることを含む私たちの解決要求を実現して欲しいと思います。

 

(2000年2月25日東京地方裁判所、2004年12月3日東京高等裁判所に提出された陳述録取書の要旨)
 

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