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「体に残る弾丸」楊宝山(事件当時10歳)

 私は、1922年8月18日(旧暦)生まれです。事件当時は、数え年で10歳でした。私の家族は、お父さん、お母さん、弟、そして私の4人家族でした。お父さんは、撫順炭鉱の炭鉱夫でした。お母さんは、炭鉱労働者の服の縫い繕いの仕事をしていました。

 事件の前日の9月15日の晩は、父は炭鉱の夜勤で家にいませんでした。この日の深夜、私の家をノックする音が聞こえました。ノックしたのは誰かわかりませんでした。外ではワーワーという人の声が聞こえました。銃の音がターンターンと聞こえました。このときは、何が起きているのかわかりませんでした。

 9月16日はいつものとおり朝7時に起きました。朝食を食べ終わったころ、お父さんが帰ってきました。
朝食を食べて外で遊んでいると、北の方から日本兵を乗せたトラックが4台来るのが見えました。トラック3台が牛乳屋の所に止まり、1台は南の方へ行きました。
 平頂山に日本兵が乗ったトラックが来たことを家に帰り、家族に伝えました。その後、私の自宅に中国服を着た男が来ました。その男の人は、中国語で「外に逃げろ。」「きのう大刀会がここを通っていった。」「日本軍が射撃訓練をするので危ない。牛乳屋の方に避難しろ。」と穏やかな口調で言っていました。さらに、「写真を撮る。」ということも言っていました。
 お父さんは「わかりました。」と言いました。私は、写真を撮られることもうれしかったし、射撃訓練を見たことがなく、それを見ることができるのでうれしく思いました。

 家を出たとき道は人でいっぱいでした。人々は南の方に歩いていました。平頂山の住民らは、西の崖の下に集まっていました。たくさんの日本兵が人々を取り囲むように立っていました。黒い布が被さった写真機と思われるものが置かれていました。私がいる場所と写真機と思われるものとの距離は、10メートルしか離れていませんでした。
 私は、写真機のようなものが目の前にあってとてもうれしく思いました。私の前に誰もいないので、よく写るだろうと思いました。
 私は、写真機の前に草が生えていて、それが写真を撮るのに邪魔になると思い、それを抜こうと思って写真機の方へ一人で近寄っていきました。すると、日本兵に追い払われたため、家族の立っている所へ戻りました。

 そのとき、平頂山の集落の方で煙が立つのが見えて、崖の下に集まっていた人々が騒ぎ始めました。日本兵は、集まっている人々に向かって「ヨボ、ヨボ」と叫びました。すると、朝鮮人らしき人が5人~6人ほど前に出て行きました。
 人々の騒ぎが大きくなり始めたころ、写真機らしきものを覆っていた黒い布が取り払われました。黒い布の下は写真機ではなく機関銃でした。日本兵の一人が軍刀を振り上げました。すると、「タツタッタッタッ」という音で機銃掃射が始まりました。
 お父さんは、弟を連れて逃げようとしました。お母さんは、私を自分の体の下にかくまうようにして押し倒しました。私はお母さんの体の下で伏せていました。機関銃の音が聞こえ、私は「お母さん!」と叫んでいました。お母さんは「うん、うん。」と答えていました。私は伏していたので、周りの様子は見えませんでした。
 1回目の機銃掃射がやんだ後、「生きている人はいるか。早く逃げろ」という声がしました。私はそれを聞いて逃げたいと思いました。しかし、まだ日本兵が引き払った気配がしませんでしたので逃げませんでした。
 その後、2度目の機銃掃射がありました。そのとき、私のお母さんにも弾が当たりました。私は「お母さん!」と呼びましたが、お母さんからは返事がありませんでした。何かが母さんのところから流れてきて、私の頭の後ろを伝わり、私の口に入ってきました。それをなめると塩からかったので、これはお母さんの血だと思いました。その時の血の感触は、今でもかなり鮮明に覚えています。私は、その時、母が死んでしまいどうしようと思いました。私自身は右の腰に弾があたりました。弾が当たった瞬間、痛くて、そのうち気を失ってしまいました。この弾丸は,後になって、太腿の方から出てきました。

 2度目の機銃掃射が終わったあと、また「逃げろ。」という声がしました。その声で私は失っていた気を取り戻しました。
 日本兵が私の近くに寄ってきました。日本兵は、銃剣で私の上に覆い被さっているお母さんの体をどかしました。このとき、私自身銃剣で突かれました。また、日本兵の軍靴で頭を踏みつけられたりもしました。そのとき、痛みを感じましたが、日本兵に見つかったら殺されると思い、動く勇気はありませんでした。頭から出血していることにも気がつきました。
 日本兵は、他の倒れている住民に銃剣でとどめを刺していました。子どもが「お母さん!」と泣いている声が聞こえましたが、その子どもも銃剣で刺し殺されて声は聞こえなくなりました。

 その頃雨が降ってきました。私は、日本兵に近い場所にいましたが、車の音が小さくなって、最後にはその音が聞こえなくなったことから、日本兵が撤退したとわかりました。
 日本兵撤退後、私は立ち上がって、家族の様子を見ました。
 お母さんは体中血だらけでした。鼻や口から血や泡を流しており、死んでいました。お父さんも体中血だらけで死んでいました。弟も近くにいて死んでいました。周りでは、人々が折り重なるように倒れており、みんな死んでいました。
 私は、北には日本兵がいて危険であるため、南の千金堡の方に向かって歩き始めました。しかし、途中で戻ろうと思い、お父さんとお母さんが倒れているところに戻りました。しかし、どこも血の海でしたので、どれがお父さんやお母さんなのかわかりませんでした。

 その後、私は、千金堡に向かって歩き始めました。その日の夜は、たった一人で真っ暗なコウリャン畑で眠りました。私は、コウリャン畑で一晩泣き明かしました。お父さんは、日本人のために炭鉱労働者として働いていて、何の罪もないのに、日本人によって殺されました。家族が殺されたことに、私は非常に憤りを感じ心が痛みました。

 私は、その後伯父さんの家でお世話になりました。伯父さんの家は農家でした。生活は苦しい状況でした。そのため、学校に通うことはできませんでした。私は、平頂山の生き残りだということが知られると殺されると思い、伯父さんの家族以外の人には、私が平頂山の生き残りだということは話しませんでした。
 私は、当時、日本軍が、平頂山出身の子ども一人に対して20元を支払うと言って、平頂山出身の子どもを捜しているという話を聞いたことがありました。私は、騙されていると思いました。以前に写真を撮ると言われながら殺されているわけですから、また同じようにしてだまされるのは嫌だ、 行きたくない、お金は欲しくないと思いました。

 平頂山事件の現場は、現在、遺骨館となっています。その遺骨館に保存されている多くの人骨を見たことがありますが、とても辛い思いです。
 私は、日本政府に対しては、何の罪もない私の家族が殺されて、そして私が一人取り残された、その苦しみや損失を理解していただいて、誠実な態度で謝罪や賠償を行うように望みます。また、裁判官の皆様には、私は今年79歳なんですけれども、69年前に何の罪もない家族が殺され、精神的、経済的な困難、損失を被っております。どうか私が生きている間に一刻も早く公正な判決が下されるよう望みます。

(2000年2月25日東京地方裁判所での本人尋問の要旨)

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