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⑥2007年 撫順市でのフィールドワーク 独立守備隊跡地の訪問.JPG

「撫順」から未来を語る実行委員会とは


 「撫順」から未来を語る実行委員会の活動は、共通の思いでつながる人びとが手弁当でやっている草の根活動です。

なぜ「撫順から」なのか


中国遼寧省にある撫順。この都市には、かつて日本軍が平頂山集落の住民を虐殺した平頂山事件の現場と、戦後、日本兵が人間性を回復した撫順戦犯管理所(撫順戦犯管理所リンク)があります。撫順は「加害と再生」が行なわれた象徴的な場所なのです。

なぜ「未来を語る」のか


私たちは「撫順=加害と再生の地」の歴史を学び、事件の生存者の思いに耳をかたむけ、国を越えた市民間の平和で友好的な関係を築くという未来を見すえて、地道な取り組みを日々積み上げています。

「実行委員会」に参加している人たち

平頂山事件裁判を支援してきた人や、撫順戦犯管理所の兵士から体験を聞きその思いを受け継ぐ活動をしている人々や、日中間の平和友好を築く取り組みをしている人たちが参加しています。
会社員、弁護士、元教師、主婦、退職した人々、研究者、音楽家、映像ディレクター、青年等々、多彩な顔ぶれです。みんなの思いは共通です。

⑥最高裁判所前での要請行動.JPG

「撫順」から未来を語る実行委員会の活動


 中国人戦後補償裁判の一環として1996年に提訴した平頂山事件裁判の支援活動が始まりです。2006年に最高裁で上告棄却され裁判には負けましたが、その後、さらに人の輪が広がり活動を広げながら現在に至っています。

Ⅰ 平頂山事件裁判の支援活動 1996年~2006年

平頂山事件裁判を支援してきた人や、撫順戦犯管理所の兵士から体験を聞きその思いを受け継ぐ活動をしている人々や、日中間の平和友好を築く取り組みをしている人たちが参加しています。 裁判は10年間に及びました。法廷でたたかう原告(事件の生存者)と弁護団を支援するため、裁判傍聴や報告集会、原告の証言を聞く会を続けました。原告は、10年間に延べ9回来日しています。来日の費用はすべて、多くの人々から「事件の解決を願う」という思いとともに届けられたカンパによってまかないました。

Ⅱ 2006年以降の活動

 裁判終了後、事件の生存者の最低限の要求裁判・要求のページにリンクである日本政府の謝罪と、その証としての碑・陵苑の設置などを実現するため、市民と弁護団が一体となって活動しています。平頂山事件を多くの方々に知っていただくための市民集会、学習会、パネル展示、国際学術シンポジウムなどを行なっています。とくに、平頂山惨案紀念館と撫順戦犯管理所がある中国・撫順市の市民との交流を重視しており、互いに行き来するなかで、多くの友人をつくり、信頼関係を築いてきました。生存者の要求実現のために国会議員の協力を求める取り組みも行っています。

平頂山事件パンフ.jpg

「撫順」から未来を語る実行委員会が制作したパンフレットは、イベントなどで購入できます。

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