平頂山事件資料館
撫順戦犯管理所
中華人民共和国成立翌年の1950年、ソ連と中国の協定により、シベリア捕虜だった元日本軍将兵、「満洲国」官僚から軍隊に入ったばかりの初年兵まで、969人が撫順戦犯管理所に移管された(太原戦犯管理所では140人の戦犯が収容された) 。ソ連での待遇とはうって変わり、強制労働もなく三度の米の食事に、医療など徹底した人道的な待遇を受けた。その中で戦犯たちは、中国の戦場で犯した加害行為を直視し、罪を認め反省していく。それを「認罪」と呼んだ。
管理所の職員も苦悩の連続だった。加害者が目前にいても仕返しは許されない。しかも自分たちよりよい食事が与えられる。不平が出るたびに話し合いをし、職員たちの人道主義政策への認識も高まっていった。戦犯の一人ひとりを丁寧に観察し、食べた食事の量までチェックされ健康管理も徹底的に行なわれた。
1956年の瀋陽軍事法廷で、45人の有期刑を受けた者以外はすべて不起訴、即日釈放となった。有罪の者も満期前に帰国を許され、死刑はなかった。帰国後、彼らは「中国帰還者連絡会」(中帰連)を組織し、反戦平和、日中友好の活動を続けてきた。2002年に会員の高齢化のため解散したが、同時に若い世代が「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を結成しその精神と事業を継承している。
「赦しの花・朝顔」
1956年、戦犯たちは瀋陽軍事裁判で不起訴・即釈放となった。帰国前、戦犯管理所の職員が、一人の元戦犯に
「もう二度と武器を持ってこの大陸へ来ないでください」
「日本へ帰ったら、きれいな花を咲かせて幸せな家庭を築いてください」
と言って朝顔の種を渡した。戦犯だった人は、日本に帰国してから毎年朝顔を育てている。
「赦しの花・朝顔」の話を知った郡山在住の坪井顕雄さんは、朝顔を育てながら、平頂山事件と撫順戦犯管理所の歴史を広めるイベントを開催している。
