平頂山事件資料館
事件を報道したアメリカの特派員ハンター
エドワード・ハンター(Edward William Hunter)は、1902年生まれで1978年に亡くなったアメリカのジャーナリストだ。
中国東北(当時の「満洲」)の実情を報道するため、インターナショナル・ニュース・サービス社の記者としてハンターは1932年当時奉天(現在の瀋陽)を中心に精力的に取材活動を展開していた。そのような時に発生したのが平頂山事件だ。
11月15日の中国紙の報道で平頂山事件は、はじめて明るみに出た。おそらくハンターはジャーナリストとして、何とかこの虐殺の現場に赴いて自分の目で真実を確かめてみたくなったのだろう。しかし現場に簡単に入ることはできない。
ハンターはまず撫順のキリスト教会の牧師から話しを聞いた。それから何とか日本軍の監視の目をかいくぐって、11月30日ついに平頂山の虐殺現場を訪れたのだ。彼は危険を冒して、遺体の埋まっている土の上に立った。それから千金堡、栗子溝など付近の集落も訪ねた。
ハンターはそれをすぐ記事にすると、山海関の郵便局から打電した。「満洲国」の郵便局は日本側におさえられていたので、まだ日本側がおさえていない山海関まで行ったのだ。
彼の第一報は、「今日私は自宅に中国人兵士をかくまっているのではないかという疑いから、日本軍部隊によって機関銃で殺害された2,700人の中国人男女、子どもたちが横たわっていた場所から戻ってきた」と始まる。
ハンターのこの記事が、12月2日のアメリカの新聞『シアトル・ポスト・インテリジェンサー』に掲載されると、大反響を呼び起こした。12月6日ジュネーブの国際連盟総会では、中国代表顔恵慶が、「アメリカ新聞特派員の現地踏査に基づく報道」として平頂山事件にあらためて言及し、日 ハンターは事件報道後、急いで「満洲」を離れ、アメリカに帰国した。彼の報道は、翌年のピューリッツァー賞候補にもなった。平頂山事件の現場を実際に取材して報道した外国人記者は、ハンターだけだった。(井上久士)