top of page

当時の撫順の町・永安台

 平頂山事件がおきた1930年代の撫順には、日本人が1万8000人も住んでいた。(*1)
 このうち1万人が日本の国策会社である満鉄(南満洲鉄道株式会社)の社員とその家族で、その多くは永安台と呼ばれる住宅地区に住んでいた。
 永安台地区は、広さが1000ヘクタール以上、中央広場を中心に道路が放射状に延び、道路は完全に舗装されていた。碁盤の目のように整然と区画が整理されていて、典型的な計画都市だった。
 中央広場に向かって小高い丘になっており、満鉄社員の社宅が建っていた。「心身の休養即明日への活力」-満鉄創業以来の住宅政策のもと、家賃は無料だった。
 道路の下には、上下水管、ガス管及びスチーム管の幹線が埋没され、全社宅にくまなく支線を張り巡らせていた。各家は、全館スチーム暖房、スチーム風呂、水洗便所だった(日本の都市に下水道とガスが普及しだすのは1960年代に入ってから)。スチーム等のシステムが完備していたその背景には、ガス、電気、スチームが商品にならない粗悪炭や粉炭から供給できたという事情があったと言われている。(*2)満鉄が経営していた撫順炭鉱で大量に掘り出された石炭は、ここに住む日本人にとって、まさに「富」の源泉だった。
 また、各戸には電話があり、当時の撫順の電話加入者数は、1750人(日本人10人に1台)と多く、しかもダイヤル式で、日本の内地よりも格段に進歩していたと言われている。(*3)

*1 大阪毎日新聞社『日本都市大観・附満洲国都市大観』1933年。
*2 原勢二著『満鉄撫順炭鉱長と平頂山事件 冤罪処刑された炭鉱長久保孚の悲劇』(新人物文庫、2010年)129頁。
*3 同上、128頁。

永安台

写真提供:撫順平頂山惨案紀念館

bottom of page