2026/02/01
国家無答責の法理とは、国が国民に対して一方的に強制力を行使した際に、誰かに損害が生じたとしても国は賠償責任を負わないという考え方をいう。たとえば、警察官が誰かを捕まえようとした際に相手に怪我を負わせたとしても、この法理によれば、国は常に賠償責任を負わなくてもよいことになる。日本国憲法17条は、国の賠償責任を認めている。したがって、現在では国家無答責の法理は否定されている。しかし、戦前の日本では、一般的に国家無答責の法理が妥当しているといわれていた。 平頂山事件は、日本軍が無辜の住民を虐殺したという残虐・非人道的な事件である。そこで、そのような場合にまで国家無答責の法理が妥当するのかが争点となった。残念ながら、平頂山事件の裁判では、国家無答責の法理を克服することはできなかった。しかし、中国人強制連行に関する裁判などでは、残虐・非人道的な行為による場合に国家無答責の法理を適用することは「正義公平の理念」に照らして許されないという判決が出されている。このように戦後補償裁判を通じて、この法理が残虐・非人道的な行為により損害が生じた場合についてまで適応されることは「正義公平の理念」に反したものであることが明らかにされた。
2026/02/01
「写真機ではなく機関銃だった」楊玉芬(事件当時7歳) 私の生まれたのは、1924年12月20日です。生まれたところは、平頂山です。...
2026/02/01
「死んでいる人たちの上を歩いては転んで逃げる」...
2026/02/01
私は、1922年8月18日(旧暦)生まれです。事件当時は、数え年で10歳でした。私の家族は、お父さん、お母さん、弟、そして私の4人家族でした。お父さんは、撫順炭鉱の炭鉱夫でした。お母さんは、炭鉱労働者の服の縫い繕いの仕事をしていました。...
2026/02/01
中華人民共和国成立翌年の1950年、ソ連と中国の協定により、シベリア捕虜だった元日本軍将兵、「満洲国」官僚から軍隊に入ったばかりの初年兵まで、969人が撫順戦犯管理所に移管された(太原戦犯管理所では140人の戦犯が収容された)...
2026/02/01
【私の家族のこと】 私の名前は方素栄です。これは、私を育ててくれた、母方の祖父が付けてくれた名前です。元々の名前は、韓暁鐘といいました。生年月日は、1928年6月2日です。 事件当時私は、両親、弟二人、祖父母、叔母(父の妹)それに私の8人で住んでいました。当時私は満4歳でした。父は韓延東(当時25歳)、...
2026/02/01
私は、1925年7月3日生まれです。事件当時は数え年で8歳でした。事件当時の家族は、父母、3歳の妹、祖父母(母方)と私の6人でした。父は炭鉱、母は火薬工場で働いていました。父は私のことを大変可愛がってくれました。父はサーカスや京劇を見に連れて行ってくれたことが印象に残っています。母は大変厳しい人でした。祖父は漢方医でした。家庭は比較的豊かで、私も8歳のときから私塾に通い、孔子や孟子の教えを習っていました。
2026/02/01
1932年12月1日 国際連盟での日本政府の見解
2026/02/01
1932年12月1日 虐殺の否定を命じる次官より関東軍参謀長宛の文書
2026/01/31
エドワード・ハンター(Edward William Hunter)は、1902年生まれで1978年に亡くなったアメリカのジャーナリストだ。 中国東北(当時の「満洲」)の実情を報道するため、インターナショナル・ニュース・サービス社の記者としてハンターは1932年当時奉天(現在の瀋陽)を中心に精力的に取材活動を展開していた。そのような時に発生したのが平頂山事件だ。...